昭和42年10月8日 朝の御理解
天地の働きの中には、私共、人間だけではない、氏子だけではない、ありとあらゆる生きとし生けれる物、育む、育てる、おかげをいただかさなければ止まんという働きがいっぱい充満しておる。
天地の親神様の御恩徳を分かる、御恩徳を知ると言うことは、そういうことが分かることことだと思う。教祖の神様という方はそこん所をお分かりになった方だと思う。
天地の中には、人間、私共氏子だけではない、これは牛でも馬でも植物でも、ね、ありとあらゆる生きとし生けれる物の上に、それを育み、それを育てる、それを生かしていく、その、生かさなければおかん、生かさなければ止まんと言う働きが天地の中にあるのです、いや、そのあるというよりもですね、そこにある、ここにあるというのではなくて、もう充満してるんです、ね。その充満しておる働きにです、私共は働きによる事、働きによらせてもらうと言う事、その働きに私共が順応するということ、それに神習わせて頂くと言う事、それに任せるということ、信心とはそういうことだと私は思うのです。ね。
そこに、私共が気付かせて頂いて、そういうおかげ、それを福寿海無量というような言葉とがでてきよるんでは、あー言うております。海のように、いわゆる、ありとあらゆる神様の願いと言うか、おかげというものがここにいっぱいある。 それを、頂きとめることをしてない、(・・・?にあることを難儀という)、ね、その難儀なことの中からおかげを頂いていく事の為には、どうしてもその天地の心を心として知らなければならんという、天地の御恩徳と言うものを本当に知らなければならん、と言うことになる訳ですね。
人間様々な、それこそ、百人百様ですけれども、甘い人が好きな人もおりゃ、辛い人が好きな人もおる、辛い物が好きな人もある。もうその辛いものがなかなければ、もうここに生きがいを感じないというほどに辛い物が好きな人がある。というと、甘いものがきれてくると、体がぼんやりしてくると言う人がある、ほどに好きなんですね。
ですから、それは甘いものが好きでも、辛いものが好きでもいいけれどもです、もうそれがなしにはならないというように、であると言う事は、ですね、不自由な事もある。ね。
例えて言うならもう酒屋の前はもう通り抜けられないと言うような人がある、ね、まんじゅう屋の前はもう、素通りが出来ないという人もある、平気で辛い物の前だろうが、甘いもののまえであろうが、いわゆる、与えられば頂く、与えられんなら頂かんでもいいというような状態、そういう状態にならせてもらうと言う事がですね、今日、私がいう天地のそういうお恵みとでもね、生かさなければおかん、育たなきゃ、育み育てなければおかん、一切を生かさなければおかんと言う働きを受け入れれるというか、それをキャッチしていけれるというか、言う状態はですね、いうならば、どうでもよいと言う心なんです。 甘いもんでもよか、辛いもんでもよかと言う状態なんです、どうしても辛いものが頂かなきゃならん、どうでも甘いもの頂かなければならん、どうでもこう言うおかげにならなければならないと、例えば、ここに一念を燃やすということはですね、有り難いことのようであるけれども、ここにいっぱい円満しておる所の、充満しておる所の、おかげを頂く心には程遠い心なのである。ね。 「いるだけは風がもてくる落ち葉かな、枯れ葉かな」ですかね、そういう、例えば生活、もうこの世の中にはですね、人間が生きていく為には、必要なものだけは絶対にあるのです、それぞれ頂きとめきらんだけのこと、ね、もういるだけは、もう自然が、神様が持って来てくださるのだと、いるだけ風がもて来る、落ち葉かな、枯れ葉かな、それを知らんもんじゃから、自分で山に行った、たきもん取りに行かにゃならんということになってくる訳です。ね。
そういう心と言うのは、どういう心かと言うと、人よりちっとでも余計に儲け出そうと、人よりもちってでも楽しようと、人よりも少しでも美味しい物を食べようと、言うようなですね、そういうひとつの我情我欲がね、なるほど、頑張りますと山に行きゃ、たきもん取ってくる訳ですけれども、
それでは、私は人間の本当の幸せと言うか、なるほどのこの世の中にそういう働きが、生かされて生きておる私達であるなと言う事が分からない。ね、自分で一生懸命働きよる間は、自分で一生懸命やらにゃでけん、自分で生きておるように錯覚する、実を言うたら自分で生きておるのではない、生かされて生きておるじゃから、そういう私はおかげを頂かせていただく為にね、教祖の神様はそこん所をいろいろ教えておられますけれども、厳しく教えておられるところですね、ままよと言う心を出せよ、ままよとは死んでもままよのことぞ、ね、いわゆる、そのままよと言う心、どうでもよいと言う心なんです、そして、天地の心を心としての生き方、親神様の心を分からせてもろうて、親神様の心に沿い奉る生き方にならせて頂いて、そのこと、甘いものやら辛い物言うけれども、甘いものでも良い、辛いものでも良い、与えて下さる物を有り難く頂こうと言う事になってこにゃいけん。ね。
ですから、そこん所が分かってくると実に楽な事になる、どうでも良いという心、けれども、お互いが様々な願いと言うものをもっておりますね、その願いと言うものをもっておりますから、その願いと言う事を私共はね、お取次ぎを頂くという事になるのである、、どうぞここが痛うございますから、( ? )ございますから、ね、そこで、私共がお取次ぎを、お取次ぎの働きと言うものを信じきらせてもらう稽古、金光大神の働き、金光大神と天地金神様のお約束、ね、どうぞ金光大神の言う事を聞いておかげを受けよと仰っておられる、天地金乃神からも氏子からもこの方金光大神が恩人だと仰っておられる、ね、だけど金光大神の方の生き方とか在り方と言うものをです、私共が一つ体得しなければならない、金光大神のお取次ぎの働きというものを私共が信ずる為には、先ず金光大神がどういうお方であったか、本当に天地からそういう信用を受ておられたことかどうかと言うことを確かめなければならない、ね、そこで、金光大神の生き方と言うことが大変尊重されてくるわけである、ね。
そこで、あの、御伝、御伝記ですね、あの金光大神を、まあ、お道の信心では聖書のように申しております。その金光大神を、例えばよく研究させてもらう、読ませてもらう、お話を聞かせて頂きますとです、金光大神の、いわゆる、生きられ方というものが分かる、金光大神はこう言う時にこういう生き方をなさった、こう言う時にこういう在られ方であられたと言うことが分かる、ね、いわゆる、金光大神のいわば生活のなされ方、と言うものを私共は実意丁寧神信心と言うておる。ね、その実意丁寧神信心させて頂く所からです、金光大神のお取次ぎの働きというものが段々分かってくるようになる、分かってくるようになるからこの方金光大神のお取次ぎを願っていけば後は安心ということになる、そうでしょうが。
そこで、お取次ぎを願うのである、私共が甘いものはいらん、辛いものはいらんと言うような心の状態になればいいけれども、なかなかなれない所にです、甘いものがほしゅうございます、辛いものが消えておりますというてお取次ぎを願う、ここが痛うございます、ここが痒うございます、こう言う金銭のお繰り合わせを頂きとうございますと言う願いというものがないならいいけれども、あるのだからそれをお取次ぎここに願うわけです、ところがそのお取次ぎの働きと言うものがです、お取次ぎを願う、お取次ぎを願うたら安心がいくとみなさんが申しますでしょう。金光大神の働きと言うものをみんなも段々分かられてこられた訳なのである。もう親先生にお願いしよったからもう安心したち、ね、体のことであろうが、医者は難しいように言い寄るけれども、親先生はニコニコ笑(わろ)うてからお取次ぎを下さった、まあー、そげん医者がいうごとなかばいのうと、信じられる訳なんです。ね、心配があるのうと仰って頂いた、心配しよったけれども、もう心配はここにお預けすることがでけた、そこにです、今日、私が言う所のどうでもよいという心と同じ心がここに( ? )けるんです。
この神様にお願いさえしておけば、この先生にお取次ぎさえ願っておけば大丈夫だと言う、それが段々強うなっていく、それが本当なものになってくる、そして、お取次ぎの働きの体験が生まれてくる。ね、そこからです、いわば、どうでもよいと言う心と同じような心の状態がお互いの心の上に頂けてくるようになるのです。ね。
そこに、なるほど、なるほど、生かされて生きておるんだなと、自分が生きておるんじゃないなと言うことが分かってくる。人間は欲がないもんですからね、もう欲が、例えば、欲がないならね、またよかつのごと思うとる人もある、ないじゃない。あれはあの、お芝居に井戸のちょうべい、ちょうべいというのがありますね、あの、ご存知、バンリンの徴兵ですよ、ね、、水野重衛座衛門との対立、そして、みすみす、水野重衛座衛門からそのだますなと言いうて、迎えられていることを分かっておりながら、もう家内にも子供にも別れの杯をして、その、水野重衛座衛門の屋敷に行くわけです、そして、井戸の中で殺されるわけですね、自分で分かってる、いきゃ殺される事は分かってる、いかにもそれが美談のように思うておる。それが男らしいもののように思うておる、それが本当な事のような思う所に、バンリンのちょうべいの、いうならば、不幸があったと言わなければならんのですよ。ね、私共はそういうようなですね、義理とか人情とか、感情と言ったようなものの中に、もうおかげが受けられるないようなものがあるのです。
せっかく人から下さろうと言うのに、それは貰わんほうが男のように思うたり、それが本当のことのように思うたり、下される事はいらん、下さろうと言うならば、それこそ、夏も小袖で有り難う頂きゃいい、でそれが、十分にお役に立つようにつこうたらです、ね、おかげは受け徳 受け勝と仰るんだけれども、そういうところはですね、私共がお取次ぎを頂いての働きと言うものがそういうふうにしてあっておるけれどもです、それを、向こうの方へ押しやろうとするような、いわば、いこじというかね、また、それを、まあ、立派なもののような錯覚というか、思い方をしておるような場合もある。これは私がいっておるところの反対( ? )ですね、いわば、どうでもよいという、ままよとは死んでもままよのことぞというそのままよと言う心は、そういう表からも裏からも見間違えねばならない、ね。
久留米の佐田さんが私のことをお夢に頂いた、もう本当に椛目の、まあ、当時は椛目の、椛目の親先生はひょうたんナマズのような人、つかみ所がない、( ? )、もうとにかくつかみ所がない、私は17年間ここのお広前をこうやっておかげを頂かせて頂く為に、全然、そのひょうたんなまず的な所、いや、ひょうたんなまずで通ってきたと自分で思うております。 私をつかもうと思っても、つかむ所がない、もう私は本当に馬鹿のよう、馬鹿のようにしても馬鹿だから、ですけれどもね、馬鹿だから、あの何年かかかるけれども、一つもその、なめられておらないと言う事である、それが、ひょうたんなまずのごと、つかみ所がない。それは、私がどういうような状態であるかと言うとですね、私はそういう自然の働きにさからわない、下さる物なら頂こう、これがほんなら与えよう、いうなら、自由無碍な心とでもいいようかな、そこに、いるだけは、必要なものだけは与えられてきた17年間であり、これは、たいがい、人間関係の場合であってもそうである。例えば、まあそんな人もなかったろうけれども、私を、ならいじめなら、いじめられたそのひとでもです、実際は、私は一つもいじめられていないと言う事である。ね。
そういう、私はその生き方というものがです、こういう生き方があると言ったような生易しいものじゃないです、ね、そういう生き方こそが自然に即応した生き方だと、そういう生き方が、私はおかげの頂けれる状態なんです。ね。
皆さんが日にち、まあ、先ほどバンリの徴兵の話が出ましたけれどもね、あの時に、もし有り難くいただいとるなら、( ? )いっとらんと思うですね、それは決して死にたくないから、卑怯な心でというのじゃないですよ、ね、そして、次の次の水野重郎左衛門と仲ようなったに違いないです、ね、そういう道があるんですよ、ね、それをよかったように思うておるということです、ね、私共の生き方の中にそれがあるのです、ね、と同時に私共がお取次ぎを頂くと言う事が、その、なぜ有り難いのか、ね、そういう上から見ると言うような心の状態に一番なりやすいのである、お取次ぎを頂く事によって、ね、いわゆる、お願いして頂いたのであるから、後はもう神様にお任せできる、親先生にお任せされる、ね、それを、信心の薄い間はお願いをしとっても、やっぱりその心配を持って帰る、お願いをしとっても、先生が心配いらん仰っても、先生はいいなさるばってん、ほんなこっちゃろうかと思う訳なんです。そこんところを繰り返し、繰り返し稽古をさせて頂きよる内に、なるほど、この先生が心配いらんと仰ったら本当に心配はもうここに預けていっていい、よいのだと言う事が分かる、ね、そういう心配のない状態、どうでもよいというような状態、いうならば、ある平生な心とでもいうでしょうか、ね、そういう、心の上に、この宇宙の中にですね、この世の中に、ね、いっぱい遍満しておる所の天地の親神様の育てねばおかん、生かさなければおかん、ね、与えなければおかんというようなそういう働きを私共の心で受け止めることが出来るようになる。ね。そういう状態をお互いが、言うならば目指しておかげを頂いておる訳なんです。
信心とは。大変難しいことでございますね、もう大変難しい御理解でございますけれども、ね、そこん所が皆さんのものになってくると信心がいよいよ楽しい、生きて行くということが本当に有り難い、ね、目が覚めたということが有り難い、風邪を引いてせきが、熱があろうがです、その熱のあることが、また咳の出ることが有り難い。生かされて生きておることが分かるからなんです。それを自分でいきらなければならないと思う所に、さぁー医者じゃ、薬じゃと言わなければならない、さぁーどこ誰に縋らなければでけんのである、ね、それが絶対のものであればよいだけれども、そういう絶対なものはない、絶対なものというたら神様以外に絶対なものがあるはずがない、ね。その絶対のものに、私共がよたれもたれさせて頂けれる信心、ね、そのよたれもたれさして頂けれるおかげを私共が頂かなきゃいけん、まあ、一口で言うならお取次ぎを頂いたら安心が出来る、お取次ぎを頂いたら有り難くならせて頂けれるところまでは一つ信心を進めて行かなければならない。そこまでは金光大神のお取次ぎの働きと言うものを信じれれる信者にならなければならないということですね。
どうぞ。